大判例

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東京高等裁判所 昭和52年(う)1234号 判決

被告人 大石征吾

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人植木植次、同金住則行連名提出の控訴趣意書同補充書(一乃至三)に記載のとおりであるからここにこれを引用し、記録並びに当審及び原審取調べの各証拠により以下のとおり判断を示す。

一  出火場所及び出火原因について

1  まず本件建物については、(イ) その焼毀度はボイラー室に近い部分ほど大であり、なかでもボイラー煙突の壁体貫通部からその上方部分にかけて著しく、かつ、右貫通部付近から東南の方向に扇状に焼毀の移行が存し、更にまた、右貫通部にはめ込まれていたメガネ石が割れ、その木製取付枠はほぼ完全に焼失し尽したこと等の客観的痕跡が認められるものであるところ、(ロ) 火災直後に実施された警察の実況見分及び消防の現場見分の結果は、いずれも、本件出火場所がボイラー煙突の壁体貫通部付近と推認される旨の判定にいたつており、また、建物火災の原因究明に豊富な学識経験を有する当審鑑定証人塚本孝一も、一件記録等を精査した結果に基づいて右と同旨の判断に到達しており、(ハ) 出火当時、建物の内外にあつてこれを初期に目撃した加藤太一、戸叶良子らは、メガネ石取付部に煙と次いで焔を、若しくはボイラー室と洗面所の境の壁部上方西寄り部分に焔を認めたとしているものである。これらの関係証拠によれば、その出火場所をボイラー煙突のメガネ石取付部付近壁体であるとする原認定は肯認されなければならない。所論は、外にも出火場所と疑われる個所がいくつか存在するというが、指摘にかかる煙突貫通部下方についてはそもそも火源の存在を疑わせる証拠がないし、洗面所湯沸器付近については前記戸叶良子の目撃状況に関する供述内容及び塚本孝一の供述等にかんがみこれを出火場所と疑うことはできず、また、同じく塚本供述等によれば所論配電線の熔断状況にも拘らず一階天井裏の漏電出火を疑うに足りる根拠もないのであつて、要するに前記原認定を妨げる事情はみあたらないものである。

2  ところで、前記の煙突貫通部付近においては焔の漏れる可能性もなく、また放火、漏電着火等何らかの火源が他に存したことを疑わせる可能性も証拠上排除されるのである。可能な火源としては唯一つ煙突の放射熱以外に考えられないという帰結にならざるを得ず、そうであればまた、本件着火の仕組み乃至メカニズムについては、過去に確認され報告された関係事例との現象的類似性から推して、原認定のとおり、壁体可燃部が放射熱によつて徐徐に炭火し遂に着火にいたるという、いわゆる低温発火の一類型であろうとの推認にいたるのも十分合理的であるといわなければならない。

以上のとおりであつて、出火場所及び出火原因に関する原認定に誤認があるとすることはできない。

二  被告人の過失について

原判決は本件出火について、ボイラーの設置(煙突等付随工事を含む)にあたつた被告人に業務上の過失を認めたが、そこにおいて過失の具体的内容は、いわゆる低温着火の虞れが予見できたのに、東京都火災予防条例の規定に基づく技術基準に従わず、同基準を下廻るメガネ石を使用しかつ同基準より多い煙突の曲り数を採用した点にあるとされているものである。

1  たしかに、建造物内に燃焼器具を設置することを業とする者は、火災予防の見地から、煙突貫通部の壁体に対しその引火若しくは着火にいたる程の加熱が及ぶことのないよう十分に配慮すべきことは当然であるが、もとより右の配慮不足が直ちに刑法上の注意義務違反となるのではなく、業務上失火罪の成否が問われる本件では、壁体に対してその引火若しくは着火を少くとも危惧させる程の加熱が及ぶ可能性を予見できたか若しくは予見する義務の存したことが、被告人の過失を認める要件となる。そしてこの場合、大きな危険性を内包する業務の本来的性質上かなり高度の注意義務を要求されることは免れないから、被告人としては、壁体に対する加熱の度合いによつては可燃物が通常の引、着火温度以下の温度においても燃え出す可能性のあることを前提として、右の予見義務を尽くすべきものである。

ただ右の予見にあたつては、事象の性質上、例えば可燃構造物の傍らで焚火をするような場合とは異なつて、現場の客観的条件から直接的に又は経験的に引、着火可能性の有無なり加熱の度合いなりを判断することは望めないのが普通であろうし、もとより、一般のボイラー設置業者に対して壁体への可熱許容限界を設置の都度いちいち具体的に知ることを望むのも実際上不可能にちかいから、ここにおいてボイラー設置業者の結果に対する予見の根拠は、専門家によつて設定され、社会的にもその妥当性を疑われず通用している一般的な安全性基準が存するときは、一応これに求められるしかなく、原判決において、被告人の具体的過失内容が東京都火災予防条例の規定に基づく技術基準に違反する点にあるとされたのも、右の趣旨において一応理解できることである。たしかに、東京都消防庁が定めた右技術基準は、その制定の目的として明示されているとおり本来は行政指導の基準たる内部規程にすぎず、それ自体として外部のボイラー設置業者一般にまで直ちにその全容が認識され得る状態にあつたとはいえないとしても、その内容は火災予防に直接役立つ実質的方策であつて単なる形式的基準ではないし、また所轄消防署に対しボイラー設置の届出をする際には当然これに基づく指導を受けることになるところ、右届出をほとんどの場合ボイラー設置業者において代行するという実情のもとで、前記のように火災予防に高度の配慮を要求されるボイラー設置業者としては、前記安全性基準のひとつとして右消防庁基準の内容を知るべく、かつこれに従つた設置をなすべく要求される場合があるものといつて一応差支えないであろう。

2  しかし、更にすすんで消防庁基準の違反逸脱が例外なく出火に対するボイラー設置業者の過失の存在を意味するかといえば、直ちにそうは言い切れない。というのは、本件の審理の結果明らかになつたとおり、ボイラーの煙突に関しては、各ボイラーメーカーが自社の機種に応じた具体的規格を定めてカタログ等に表示し、これに従つた設置を要求しており、またメガネ石については、性質上設置業者は既製の市販品を使用することにならざるを得ないものであるところ、これについても当然製造者の規格が存し、叙上いずれの規格とも、とくに公的、権威的機関によつてその安全性を危ぶまれ或は公的に使用規制をうける等の形跡もないまま長期にわたつて広く社会一般に通用定着してきたという明らかな事実が一方にあるからである。

このように、ボイラー製造業界及びメガネ石製造業界における規格もまたひとつの事実上の安全性基準として社会一般に通用していると認めざるを得ないとなると、前記消防庁基準がこれより厳しいものである場合については、当該具体的状況のもとでこれらメーカー規格に頼つては安全性の点で欠けるものがあり、消防庁基準に拠らないで危険なのではないかと危惧させるような特別の事情がない限り、一般のボイラー設置業者において日常身近かにあるメーカー規格を信用し、これに頼りさえすれば消防庁基準の違反があつても実質的安全性の点でとくに問題はないと考えるのも一応はやむを得ず、これら職業上身近かに通用している規格を越えてまで過剰加熱乃至引、着火の危険性を予見する法的義務が常にあるとすることには疑問がある。

3  叙上の見地からすると、まず本件における煙突の曲り数を具体的な過失内容とみることは困難である。そもそも形式的にみても、前記消防庁基準は煙突の曲り数を「できる限り」二個所以内にせよという相対的なものであるところ、本件でこれが四個所とされたことに設置現場の客観的制約から生じた合理的理由がないわけではないし、更に実質的にみれば、右基準の狙いは結局十分な通気力を保持することに尽きるところ、被告人は、本件煙突の設置にあたつてはボイラーメーカーの要求する正常燃焼に必要な通風力(もとより相応の安全係数を見込んだもの)を満たすことをもつて設計の基本とし、煙突の曲り数が四で直径が一五・五センチメートル(原認定は誤り)であることに応じて、これもメーカーの示す方法にしたがつて所要の高さを割り出したものであつて、現にその結果はメーカーが実質的に要求する通風力を計算上満たすものとなつていると認められ、若し本件において煙突の曲り数を二個所以内にとどめ得たとしたら、これに応じてその高さはより低く設計された筈のものと認められるものである。

いうまでもなく、通風力要素に外ならぬ煙突の曲り数は、その高さ及び内径との相関関係においてある程度相対的に定められていい筋合いのものであるから、設置業者においてメーカーの要求する通風力を究極的に満たすような煙突を設置した以上は、その曲り数不足によつて通風の異常を生じ、そのため当然予定された以上の、従つて安全性の見地から許容される以上の煙突の過熱が生ずるという可能性を予見することは、被告人においても一般にも困難であつたと認められるし、また本件の具体的状況のもとでも、メーカーの要求する程度の通風力ではいわゆる低温発火その他の壁体発火を惹起するのではないかという危惧感を与えるような特別の事情が存在したとはとうてい認められず、すなわち、被告人にこの点の予見可能性ないし予見義務があつたものとはなしがたいのである。

4  これに対し、本件のメガネ石に関してはたしかに問題がある。それは、外径約二二・五センチメートル四方厚さ約八・三センチメートル、穴の直径約一五・八センチメートルと計測されるもの(以上の計測値は原認定と異なる)であつて、とくに穴の周縁から外縁部までの最短距離は約三・二センチメートルであるから、前記消防庁基準に定められたものと比較すれば断熱性において格段劣るものであろうことは容易に推認され、若しメガネ石が右基準に適合するものであつたならば、或は本件出火を免れ得た可能性も大であるといえるからである。

しかし、本件メガネ石は、煙突の直径に適合するものとして最寄りの市販品を使用したものであるところ、証拠によれば、現時点においても、任意抽出された限りの市販品は厚さ約七センチメートル止まり、穴の周縁から外縁部までの最短距離約五センチメートル止まりだというのであり、また、たしかに東日本セメント製品工業組合が東京消防庁の依頼に応じて定めた組合規格は当時既に存したものの、この規格に拠るときは重量、サイズが大きくなつて壁面での保持に技術的難点を生ずるとの理由から、これに合致する製品は今にいたるも市販されたことはないのではないか、というのである。

してみると、本件メガネ石は市販品一般の規格から外れるものではなく、すなわち前述した意味での社会的に通用しているひとつの安全性基準に適合するものであると認められ、また、被告人においては、消防庁基準に合致するメガネ石はもとより、断熱性において本件のそれよりも一見して勝ることの明らかなメガネ石をたやすく入手し得たとは認めがたい実情にあつたものであり、外に、本件の具体的状況のもとで本件メガネ石を用いることが危険な断熱不足を生ずるのではないか、メーカー規格自体が安全性の点で不十分なのではないか、と危惧させるような特別の事情、例えば前述した煙突の過熱を危ぶませる事情等が存したと窺わせる証拠もないのである。結局メガネ石についても、メーカー規格を越えて結果を予見し、すなわち、それがいわゆる低温発火その他の壁体発火の原因となりうる程に断熱性に欠けるものであることを予見することができ、若しくは予見する義務があつたとするには、強い疑をとどめるものといわなくてはならない。

5  なお、本件公訴事実と事実を同一にする範囲内において、被告人に訴因と異なる態様の過失が存したと認めるに足りる証拠も特に存しないところである。

三  結論

以上のとおりであつて、被告人に対し本件出火について業務上の過失があつたものとするには証拠上なお合理的な疑があり、本件については犯罪の証明を欠くものとしなくてはならないから、これを有罪とした原判決には事実誤認又は過失に関する法の解釈を誤つた違法があり、破棄を免れず、論旨はこの点で理由がある。

よつて刑訴法三九七条、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により当裁判所において更に判決するものとする。

本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑訴法四〇四条、三三六条により主文第二項のとおり判決する。

(裁判官 菅間英男 柴田孝夫 松本光雄)

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